医者になりたいとか、弁護士になりたいとか、有名な外資系コンサルの企業で働きたいとか世間体や見栄、給料を気にして仕事や生き方を決める人は多い。
もちろん目標に向けて努力することは大切だけど、やっぱりそれだけではどうにもならない時がやがて来ると思う。
特に、最近某皇族と結婚したあの人を見て思う。
マスコミで色々言われていることはひとまず置いていおいて、自分が彼に対して思うことは本当に「米国で弁護士になりたのか?」ということだ。
彼が米国で弁護士を目指す動機って、皇族と釣り合いをとるためにはある程度は箔のある職業にとか、世間から見てステータスとなる資格が欲しいとか、そんな所でないのかと思ってしまう。
弁護士という仕事に求められる本質的な想い…
法律の専門知識を身に着けて弱い人の力になりたい、とか
世の中の理不尽を正したい、とか
そんな強い想いを彼からは感じることはできない。
仮に今後司法試験に合格して米国で弁護士になり、理想の自分になることが出来たとしても、すぐに弁護士であることがやがて「日常」になってくる。
激務で満足に寝ることが出来ない日常、
仕事の責任の重さに胃を痛める日常、
優秀な同僚と比較・競争させられる日常、
常にリストラと隣り合わせの日常、、、
決して平坦ではない日常が待っているはずだ。
世間体やステータス、給料の良さなど外面だけの想いでは決して乗り越えられない壁がくる。たぶん。
「なぜ弁護士なのか?」
「なぜ米国なのか?」
「なぜこのクライアントなのか?」
弁護士に限らず専門的な職業ほどこの想いは大切になる。
彼は理想を実現した後、日常が投げかけてくる「問い」に明確に答えることが果たしてできるのだろうか?